映画『虹の女神 Rainbow Song 』全解説 Page1 



第一章 水平な虹

 『虹の女神』は、水平な虹が映る青空ときれいなピアノの調べをバックにした出だしから、この映画への愛が切々と伝わってくる、そんな映画である。
 オープニングでのクレジットの数は6つ。順にプロダクション名、監督と主演俳優の名前、そして作品名が英文字で現れる。

   playworks
   a naoto kumazawa film
   hayato ichihara
   juri ueno
   rainbow song
   虹の女神

 だから rainbow song には、オープニングには字幕を入れずに出品したい、そして、世界中で同じ作品名で知られる映画にしたいという願いが込められている。

 主人公岸田智也は1979年生、映像製作会社で使い走りのように働いている。時は2003年10月。智也は24歳。2年前の就職氷河期に大学を卒業したあとフリーターをしていたが、学生時代からの友達の佐藤あおいの紹介で今の職についている。彼女とは1年近く会っていない。彼女は智也に勧めた会社をやめて研鑽目的でロスアンゼルスに行っているからだ。
 そんなある日、珍しい形の虹を見て、遠く離れているがもっとも身近な存在に気づいて、画像メールと伝言メッセージを送った朝から、突然の訃報を知らされる1日が始まった。
 この日の智也の仕事現場は、野外でのミュージッククリップの撮影。被写体の「エンブリヨ」が遅れてやってきたためか、監督の機嫌もことのほか悪い。智也は右往左往しているだけ。まだ言われたことしかできない。仕事に慣れていないせいか、弱い性格のせいか、おそらくその両方なのだろう。そのためとばっちりはいつも智也に向けられる。こうした智也像を市原隼人が自然体でリアルに演じている。

  「なんでエンブリヨって名前なんすか?」
  「彼は永遠に未熟であり続けたいんだよ」

 なにげなく交わされる会話は智也の心中を暗示しているかのようだ。いや、きっとそうにちがいない。1、2度見ただけでは見過ごしてしまう台詞も、しっかり計算され、練りに練られた脚本に書かれたものだから、繰り返し見ることで意味をなしてくるものがあるのだ。2003年10月という現在の設定も、最近になって気づくことができた1つである。
 あわただしい現場の1日。日が暮れてしまい、撮影は明日に持ち越されるが、社に戻ってからも映像制作会社の仕事は続く。毎日の当たり前のような残業シーン。点けっ放しの夜のテレビが、デスバレーで起きた飛行機墜落事故の続報を読み上げる。この場面がリアルに映るのは、熊澤尚人監督がここまでにいたる映像をとことんライブ感にこだわって撮ったからにほかならない。

 「乗客全員が死んだカリフォルニア・デスバレーの墜落事故で…新たに日本人1人の名前が分かりました。このかたのお名前はサトウ アオイさん25歳です」

 翌日、エンブリヨの撮影が再開した。降りそそぐ雨が予想外の効果映像で撮影は順調に進み、上司の樋口は岸田に運転させて弔問に向かうことにした。赤信号をうっかり見過ごす岸田、途中で喪服を買い、佐藤家に着く。佐藤家には親族と、昔の映研仲間が集まっていた。こんなときしか親交を温められない旧友の眼が「あおいの恋人だった(口に出さずとも思っていた)岸田に向けられる。2階にはあおいの盲目の妹かながいて、一人静かに悲しみをこらえている。母親は別室で打ちひしがれている。短いシーンがていねいにつながり、むだがない。
 岸田は空港まであおいの両親とかなを送ることになる。決して悲しみを顔に出すまいとする父親役を演じているのは小日向文世。死んだあおいと対面するまでは実感が湧かないのも当然で、車中の会話も、そんな微妙な雰囲気が表現されていて秀逸なつくりだ。カーラジオから流れるリスナーからのリクエスト曲は南沙織の『春の予感』。

 「懐かしいわね」
 「いつだっけ」
 「あおいがちょうどおなかの中に入っていた頃じゃない?」

 なにげない車中の会話から、あおいが1978年生まれで、墜落事故の年は2003年(25歳)ということがわかる仕掛けになっている。このことは「第六章 恋人」で、智也が「ぼくも羊年です」という台詞があることでも裏打ちされている(羊年なら1979年生。あおいとは生年は違うが学年は同じだった)。脚本がしっかりしていて破綻がない。当然、流れている歌にも意味がある。

春の予感、そんな気分
いつもと違うでしょう
春に誘われたわけじゃない
だけど気づいて
I've been mellow


春の予感−I've been mellow− (1978年) 作詞、作曲/尾崎亜美 歌/南沙織






 智也は空港で「一緒に行こう」というかなの誘えに応えることができず、一人戻る帰り道、車を止めて休む。婚約者でもないのに、一緒に飛行機に乗ることはできない。なのになぜかなが「一緒に行こう」といったのかを回想するために。



第二章 ストーカー時代

 名作と言われる映画には、記憶に残るシーンや台詞があったり、小道具がうまく使われたりしているものだが、『虹の女神』にも語り継がれるシーンがある。その数は前例がないほどの多さだ。台詞も短いながら心に残る台詞があった。「“そば”じゃないんだ」や「お前は何なんだよ」は、そのときの智也やあおいの所作とともに忘れられない台詞だ。小道具も、虹、一万円札の指輪、代書した手紙、Vodafoneの携帯、8ミリ映写機、etc…がある。名作に欠かせない条件がこんなに揃っている映画も珍しい。これは決して偶然ではない。そのわけは、この映画が回想シーンで作られているということにある。印象に残っている回想シーンをつなぐ手法がうまくいくとは限らない(むしろ失敗することのほうが多い)。だが、『虹の女神』は、見てて飽きない、何度でも見たくなるし、撮りたくなる、そんな役者(上野樹里)をヒロインに起用することで素晴らしいできばえの映画になった。

 熊澤監督が上野樹里を「ライブ感のある女優」と評したように、彼女は、仕草や間の取り方、表情で、幾通りもの主人公やその心の動きを演じ分けることができる役者だ。だから見てて飽きない。何度でも見たくなるのである。

「もう、毎日、毎シーン、質問攻めで(笑)。小さな気持ちの流れひとつとっても大切な作品だったので、よく話し合いの時間を持ちましたよ。
 彼女はライブ感がある女優さんで、脚本に書いてあるとしても、その後の動きが予測できないんですよ。ライブ・セッションをしているような新鮮さがありました」

 『虹の女神』には「4人」の佐藤あおいが登場する。2000年春、智也の最初の回想に出てくるあおいは21歳。恋人なし、キスの経験もない8ミリ好きな学生だ(第二章 ストーカー時代)。
 2人目のあおいは2000年の初夏から初秋までのあおい。上野樹里は好きな人ができた喜びと孤独感の二面を演じている(第三章 コダック娘/第四章 妹)。
 3人目のあおいは、24歳になったあおい。樹里は、上司(佐々木蔵之介)の回想シーンに出てくる、キャリア女性としての魅力にあふれているあおいと、再会した智也とのプライベートな場面でのあおいの二面を演じている(第五章 失恋)。
 そして4人目のあおいは8ミリ映画のヒロイン役のあおいだ(第七章 地球最後の日)。

 さて、章立てされた映画の第二章では、出会いの瞬間から「恋の予感」までの短い春が昨日のことのように思い出される。
 映画が18分経過してはじめてスクリーンに現れるあおいは、CDショップでアルバイトをしている。岸田は同じ店の別の子(鈴木亜美)にフラれたのだが、あきらめきれずデートの機会を窺っていた。そんなときあおいに声をかけられるのだ。あおいは自主映画製作の資金づくりのためにバイトしている8ミリ映画好きな学生。声をかけられた岸田は勝手な理由であおいに近付く。あおいは逃げる。そんなあおいを岸田はしつこく追いかけた。

 「という訳でね “いちどお茶でもいかがですか”ってさ」
 根負けしてキューピット役を買って出たあおいは、肩の力が抜けてなぜかうれしそうな顔をしている。智也の回想ではこの場面はありえない。あえて挿入されたのは、ここまでの恋人がいない以前のあおいとここからの恋の予感がした以後のあおいが違うことを示すためである。
 約束できたはずの場所に現れたのはあおい。

 「ごめん 来ないよ 彼女」
 「口説けなかったんだよ」
 きせずしての二人の初デート。この章の初めから切れ目なしに画面に出ていたあおいが始めて大写しになり、フレンドリーに智也に話しかける横顔がやさしさに満ち溢れている。


 「1年ぐらいかな つきまとわれて」
 「そこまでされてるともう何ていうんだろう」
 「情がわいてくるというか」
 店を出て、前を行くあおいの少し後ろを歩きながら智也が話しかける。

 「ほう」
 うしろを振り向いてあおいが反応する。後に続くはずの言葉は巧みに飲み込んで、心のうちに閉まったことに智也は気づかない。

 「んで あきらめたってのもあれだけど… 付き合った訳」
 「で 三回デートしてあっさりフラれた」
 智也が語る逆ストーカーになった理由に、恋に臆病なあおいは共感する。だが、智也が受けたトラウマまでは分かっていない。

 「これで いい映画 撮ってよ」
 「それだけじゃ 映画 撮れないんだけど」
 「大事に使わせていただきます」
 手を取ってはめてあげた1万円札の指輪、水溜りに映った水平な虹。智也にとって回想の中のあおいは、余分な気づかいをしないで話しやすくて、気楽に頼みごともできる、しかも、真正面から反応してくれる、そんな女性だった。恋の予感は智也も十分感じていたはずだった。そしてあおいはなおのこと感じていたことを、のちに智也はあおいの遺品で知ることになる。



第三章 コダック娘

 第三章から第四章は、智也とあおいが映研での日々を過ごした数ヶ月を回想する。
 あおいは、大学の食堂の端っこで一人ランチを取っている智也を見つけて順調な付き合いをスタートさせたのだろう。季節は初夏。この日のあおいはいつもの学食で智也を見つけ、持ってきた脚本を見せる。「遅い」と足を踏み鳴らして先を読むことを催促するあおいに、ライブ感みなぎる樹里の真骨頂を見ることができる。

 「この男の役 君にやってもらうから」
 「勝手に決めないでよ」
 智也はあおいの強引さになかばあきれながらも笑顔で答え、満更でもなさそうだ。ここでの樹里は、はじけんばかりの明るさで、恋をしているあおいを見事に演じている。一緒に映画を撮れる喜びを身体全体で表して踊るようにカメラワークのポーズをとるあおいも良い。
 樹里が演じたパントマイム的なあおいの仕草は監督も気に入ったようで、エンドロールにも再現されている。ここでのシーンと打ち上げ会のキャンパスでのシーンだ。カメラワークのポーズは好きな人ができた喜びを、打ち上げ会のシーンは好きな人ができた孤独感を、樹里はうまく表現した。打ち上げ会のキャンパスでは、ひそかに好いている智也のことが気になり、近くを歩き回りながらチヤチヤと視線が行ってしまう。上野樹里は、こうした演技をすでに『サマータイムマシン・ブルース』でも見せていた。このときは、彼を盗られたくない乙女心を、そして『虹の女神』では、好いている人が近くにいるのに切なくなる孤独感を演じ分けたのである。

 「こんなに好きな人が近くにいるのに孤独感を感じるなど、恋心を抱いたことがある人なら分かっていただける映画になっていると思います。いろんな目線から観られる映画だと思うので、何かあった時に思い出したり、自分の新たな要素に気づくかもしれません。私もこの映画を通していろんなことを教えてもらったので、皆さんも楽しんで観てください」

 彼女はテクニック(演技)を必要としない女優だ。役の心さえ掴むことができれば、自然とからだが動き出し、表情が生まれる、そうしたライブ感が上野樹里のたまらない魅力なのだ。彼女はこんなことも言っている。

 「私の場合は、細かく言われるとがんじがらめになって人工的になってしまいます。いつも監督やスタッフと一緒に現場にいると、その場の空気を読んで"こうなるのかな"と自然と気持ちが入って動けるので、監督は見ているだけでも大丈夫だと思います」
「キャラクターは決まっていても、その場の空気、相手のリアクションなどで色々な表情が出ると思うんです」
 「みんな恋をすると不器用になりますよね。"好き"というだけでいいのに、本題に入るまでが長かったり、本当に言いたいことを伝えられなかったり。この映画に出てくるみんなも不器用なんですが、頑張って生きている感じが温かくて良いなと思いました」


 「ホント 人をいいように利用するね 君は」
 二人だけの映写室のシーン。樹里が提案した特訓の成果で、あおいがフィルムを編集する手つきも手馴れたものになっている。二人のとりとめもない会話はいつまでも続き、時間はゆったり流れる。ここはあおいの顔が大写しになる2度目の場面でもある。あおいに代書を断られ、部室の控えに場所を変えて今日子へのラブレターを書き出したものの途中で眠りこけてしまう智也。

 「しょうがないな 書いてあげますか」
あおいは書きかけのつたないラブレターを見て、智也を起こさないように気遣いながら代書をはじめる。できることならこの時間が永遠に続くことを願っているのだろうか、ちょっと幸せで切ない恋心を見せるあおいの表情が素敵だ。
 この映写室へ向かうシーンからあおいの代書シーンまでの二人だけのゆったりした時間はほんとうに素晴らしい。もし『虹の女神』の5分モノのデモテープを私が作るとしたら、切り貼りしないでここだけを取り出してもよいと思うくらいだ。

 "秋田美人"の麻倉今日子を演じているのは酒井若菜。同じ映研仲間に尾形(田中圭)という恋人がいる。そのため今日子は智也とのキスシーンを拒む。恋人がいる前でキスをするのが嫌なのはわかるが、それはヒロイン役を受けたときから承知していたはずのこと、おそらく今日子は、尾形君が恋人役と思ってヒロインを受けたのかも知れない。ところが、あおいは智也を映研仲間に紹介した。誰の目にも智也はあおいの彼氏に見えた。そしてメガホンを取るあおいの張り切った姿を見ていて、今日子はあおいが恋をしていると思ったに違いない。だからなおさらのこと、今日子は岸田君とキスすることができなかったのだ。
 この自主映画の撮影で疑問なのは、智也を好きになったはずのあおいが、なぜヒロインの恋人役に智也を選んだのか、である。自分で書いた脚本では、二人は公園で抱き合いキスをすることになっているのだから、この不可解さはどうしても残ってしまう。

 映画は、監督のあおいが自らヒロイン役をやることで撮り直すことになり、なんとかクランクアップを迎えることができた。喜びを分かち合い、智也に抱きつく瞬間、意識して取り繕うあおい。そして打ち上げ会のキャンパスでは、智也の背中を今日子のいるほうに押しやるあおい。「好きだ」といえずに過ぎてしまった不器用な恋の日々を悔やむように、智也を盗み見るあおい。どれも好きなシーンだが、あおいの「愛情表現」はいつも切なさに包まれていて、屈折していて、男の「理解」の範疇を超えている。
 今日子との恋が叶わなかった打ち上げ会の帰り道、二人は、言葉を交わすこともなく、かわるがわる空き缶を蹴りながら、どこまでも続く側道をとぼとぼと歩く。あおいと智也にしかない得がたい関係を象徴するシーンだ。そこには、互いに異なることに思いをめぐらしながらも、言葉を必要としない、二人だけの濃密な時間が流れていた。

 場面は、学内掲示板を真剣に見ているあおいの姿を映し出す。掲示板に張り出されているポスターは「合同企業説明会」。映画は何のキャプションも付けずに就職活動の時期が来たことを告げてくる。夏の終わり。智也は愛宕神社の祭りにあおいを誘う。だが、あおいは妹と祭りに行く約束をしていた。



第四章 妹


 「お姉ちゃん 今日なんでも言うこと聞いてくれそう」
 「岸田さんが一緒だからかな」
 全盲なので、映画の中で妹のかな(蒼井優)が回想するシーンは出てこない。だけど、私たちは容易に想像することができる。あおいが妹に話したであろう、智也とのいろいろなことを。代書した手紙も読んでみたし、好きになった理由も話したことだろう。お祭りで妹に智也を会わせたら、何をしゃべられるかわからないから困る、でも、せっかくの智也の誘いを断りたくない、そこで「妹と 絶対口きかないこと」を条件にあおいは承諾したのだ。
 お祭りの場面は、切ない基調の映画全体の中で一服の清涼感を味わえるところだ。蒼井優の演技に癒され、のんびり、やさしい気持にひたることができる。そして、そうした日々が去っていくことを悲しむかのように秋風が吹き、場面は部室の片付け掃除をしているあおいを映し出す。智也、手伝う。

 「お疲れさん 飲む?」
 「うん」
 「どっち」
 「こっち ありがと」
 あおいが缶ジュースを2つ手に持ち、部室に戻ってくる。自然に智也が好きなほうのジュースを手に取る。缶ジュースを飲みながら、お互いの近況を語り合い、未来に思いをはせる。二人だけの部室。黙って空き缶を蹴りあったときと同じ、ここにもぜいたくで貴重な時間が流れている。かつて幾人の若い男女が、こうした二人だけの時間を持つことができたであろうか。

 「就職 決まった?」
 「苦戦してますね 佐藤さんは?」
 「苦戦してますよ」
 「みんな苦戦しているんですね どこ受けたの?」
 「どこって まあ普通に銀行とか証券会社とか」
 「映画やらないの?」「映画やりなよ」
 「どうして?」
 「どうしてって 夢だったじゃん」
 「夢ね」
 「もったいないよ」
 「人の人生だからね そう簡単に言えんのよ」「じゃあ 君の夢って何?」
 「俺の夢? 何だろうな」
 「ほら わかんないじゃん 私だってわかんないよ」

 この年、2000年は就職氷河期。よい映画は時代の空気も映し出している。

 就職氷河期に就職活動を行った世代(概ね1970年代から1980年代初頭生まれ)は、氷河期世代と呼ばれることが多い。他に「貧乏くじ世代」(香山リカ)、「ロストジェネレーション」(朝日新聞が、2006年8月及び2007年1月の特集で使用)といった呼び方もある。
 この世代は、正社員になれなかった者が多く、フリーターやニートと呼ばれるカテゴリーに属する者が多いとされる。

 大卒者の雇用環境も、この時期に大きく悪化した。リクルートワークスの調査によれば、1991年をピークに求人倍率は低下傾向で推移し、2000年には1倍を下回った。多少の変動はあるものの、2002年を谷とする景気の回復に伴い求人数が増加するまで、長期間にわたり雇用環境は厳しい状況となった。
(以上、Wikipediaより引用)


 智也は映写室にあおいを引き込んで、あおいの撮った8ミリを一緒に見ることで、「映画やりなよ」とあおいの「背中」を押す。あおいは暗い映写室の中で、大粒の涙を流す。あおいの涙は何だったのか、智也には知る由もないが、涙を流したことは知っているに違いない。なぜなら、ここにいるあおいは智也の回想の中のあおいであり、智也が見たあおい、智也が傍にいて想像できたあおいだからである。だから私たちも智也の回想を通してあおいが涙を流したことを知ることができるのだ。そして智也が理解しなかった涙の意味も…。

 あおいの涙は、智也と過ごした学生生活に終わりがきたことへの涙、成就しなかった恋への別れの涙であった。
 そして、もう一つ智也が理解していなかったことがある。
 「余分な気づかいをしないで話しやすくて、気楽に頼みごともできる。しかも、真正面から反応してくれる人」、智也にとってあおいがそうだったように、あおいにとって智也はそうした居心地がよいはじめての男性だったことを。
 居心地の良さを互いに感じながら、一緒になる約束を交わすことができなかった二人。この年あおいは22歳の誕生日もクリスマスも一人で過ごしたのだろうか。映画は、雪深い山中に入りロケするあおいを映し出すことで、智也の回想が中断されたことを告げ、場面は上司樋口(佐々木蔵之介)の回想シーンに替わることになる。


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